『春泥尼抄』

『春泥尼抄』

今東光

新潮文庫

 

発端は、河内音頭の盆踊りの夜。

火花のような一瞬のパッションが、教師と児童(!)の間に散った。

 

先生は、教師を辞め、夢を追って東京の大学に入った。

児童は、口減らしのために尼僧になった。

 

そして数年後に、再会する。

 

『小説河内風土記』とは趣の違う、尼僧ものだった。

 

再会した二人は、自分たちは「孤独同士」だと感じる。

そのシーンで、先生がマルチン・ブーバーという人の「孤独」の概念を語る。

 

何を言っているのかは理解できなかった。

でも、二種類の孤独の違いは、ちょっと気になった。

 

事物の体験と利用とを止める、孤独。

すべてのものから関係を断つ、孤独。

 

先生と再会する前の春泥は、前者の孤独の真逆をいっていた。

春泥は、性と愛を、体験と捉え、利用しまくった。

(この頃の春泥も孤独であったと思うけど)

でも、先生と再会し、向き合えた後、体験と利用を止めた。

 

先生は、盆踊りの夜の後、性と愛に関してのすべてを断った。

 

2種類の孤独の違いは、多分、愛と許しの有無だ。

 

『小説河内風土記』の『おんば』の姉妹は、前者タイプではないだろうか。

 

後者の孤独に、『はみだしっこ』のグレアムを思い出した。

サーニンがグレアムに言ったんだっけ?

「自立と孤立は違うんだよ」

 

 

春泥と先生の間にあったのは、恋ではなくて、愛。

だから、恋人同士ではない。

でも、愛人同士と呼ぶと、いけない関係みたい。

愛し合う二人を、日本語では何て言うのだろう。

 

…同志?