羽生と熊谷と鴻巣
2022年11月19日(土)
羽生駅を降りて、何となく建福寺を目指したら、そこは浅間神社だった。
建福寺は、駅前にあるはず。
駅前がカラオケ屋だったので、お寺と結びつかず、違う方に行ってしまった。
カラオケ屋は、田山花袋が訪れていた頃は、お寺の森だったのだろう。
太田玉茗時代の本堂と、玉茗の詩碑。
この本堂の両側が、六畳間なのだろうか。
『蒲団』の女弟子岡田美千代が、玉茗に里子に出す赤ん坊と、同門の水野仙子としばらく暮らした部屋。
この山茶花(?)の所に、『田舎教師』のモデルとなった小林秀三さんのお墓と文学碑がある。
この下に、『幼きもの』の道子、三村千鶴子のお墓がある。
歴代の寺僧の墓地の一隅にやがて人達はその小さい棺を運んで行つた。大きな杉の森の中に、篠や雑草や小さな灌木などの茂って居るやうな處で、暗い淋しい道には、古い落ち葉がじくじくした地面の上に散らばつて居た。草叢の中には、沼の跡でもあつたかと思はれるやうな黒い汚い水が光つて居た。
丸い輪塔形の墓が其處にも此處にもあつた。
今は、カラッとしている。
ここは、とてもいい感じだった。
40センチくらいの高さの、縦横10センチくらいの直方体の、千鶴子のお墓。
それを、過去の住職たちの卵塔(?)が守るように建っている。
その住職たちの卵塔は、千鶴子のお墓よりちょっと背が低い。
そして、なんともかわいい形。
そして、規則的にではなく、ばらばらにある。
境内に銀杏の樹が五六本ある。
これが黄葉すると、頗る奇観だ。私は先年其黄葉した時のさまを見たことがある。
そんなに奇観ではない。
でも、とてもきれいな黄葉だった。
毎年、銀杏が一石くらい採れて、売ると10円位の収入になったそう。
一石はどれくらいで、当時の10円はどれくらいのものなのか。
この鐘撞台は、玉茗先代が建てたもの?
建て直しているだろうけれど。
その先に、真っすぐの道が続いている。
寺所有の長屋が並んで、飲み屋があったりして、賑やかだった所だろうか。
思春期の頃の玉茗が通ると、酌婦が抱きついてきたりして困ったという通り?
この後、玉茗と花袋が、よく遊びに行った館林に行く予定だった。
でも、寝坊して時間が無く、熊谷に戻った。
秩父鉄道は、一時間に二本。
利根川を渡るつもりだったけれど、荒川へ。
でも荒川へは行けず、その手間への小川で日向ぼっこをして時間を潰した。
時間が来たので、都内から、実家近くの鴻巣へ引っ越した先輩の家へ。
マンションの窓から、あっちが浅間山、あっちが秩父連峰、もうちょっと寒くなるとあそこ富士山が見えると教えてくれた。
昔は、稲を刈り取った後、小麦を作ったそう。
ここら辺は、土地が豊かなんだろうな。
帰りの高崎線から、先輩が引っ越す前に住んでいたマンションが見えた。
部屋も特定できるくらい、はっきり見えた。
何度か遊びに行ったことがある。
あの部屋には、今どんな人が住んでいるのだろうか。
不思議な感じ。