『小説河内風土記 巻之六』

『小説河内風土記 巻之六』

今東光

 

図書館には、『巻之六』が無い。

古本で探したけれど、『小説河内風土記』自体が無い。

 

『巻之六』の各作品のタイトルを見ると、面白そう…。

 

 『う』

 『鼬』

 『隠沼』

 『尼僧の子』

 『寝腐れ髪』

 『しゃも寺』

 『浮世の子』

 『助平村』

 『河内まんざい』

 『去り状』

 『河内女』

 『浮世の裂け目』

 『好き法師』

 

『う』って、なんだ?

鵜? でも鼬を漢字にして、鵜は平仮名?

 

八尾市の図書館にならあるかなぁと検索したら、なんと貸し出し中だった。

八尾のどんな人が、今、読んでいるのだろう。

私みたいに、巻之一から順番に読んできたのだろうか。

それとも、この中のどれか一作目当てだろうか。

 

だとしたら、どれ?

 

 

『小説河内風土記 巻之五』

『小説河内風土記 巻之五』

今東光

 

『仏心』

どうしても最後に内海桂子師匠の説経が聞こえてくる、尼僧もの。

 

 

『毛蟹』

毛蟹に関しては、『お色気大賞』。

さこみちよさんの「ウハハハハハ」という、豪快な笑い声を思い出す。

 

でも、状況は辛い。

 

 

『裸蟲』

河内の男性は、大阪の遊郭よりも、奈良に行くことが多かったそう。

郡山の、洞泉寺と岡町。

 

ネットで見てみた。

当時の建物は、洞泉寺の方は文化財として保存されているようだけれど、岡町の方は壊れていくままのよう。

 

昔、若い頃にヤンチャをしていたという人から聞いたことがある。

喧嘩は、頭突きで先手必勝みたいなこと。

その時は、頭突きってかっこ悪い…と思った。

でも、朝吉が、まさに頭突きで先手必勝。

頭突きって、すごい威力なんだな。

朝吉は、相撲で鍛えているから、それは凄まじい破壊力なのだろう。

 

 

『小説河内風土記 巻之四』

『小説河内風土記 巻之四』

今東光

 

『尼講』

 

またもや内海桂子師匠のお説教を思い出した。

けれど、バカボンのパパの「これでいいのだ」なのかもしれない。

 

 

『月下の河内野』

 

これまで浅吉だったけれど、巻之四で、朝吉になった。

『悪名』の朝吉と違って、この朝吉は、お伊勢参りに行かなかった。

 

朝吉に対して、好き避けをしてしまったおけいが、何年も経って、朝吉と結ばれるお話し。

 

二人の縁を結んだのが、酒が原因で落ちぶれた漫才師、文句留の死。

 

『河内風土記』の中で、今のところ、唯一、さわやかさを感じられる恋愛。

 

 

巻之四でも、色々と不思議な人達が出てくる。

『傭い歯』には、元力士の鯉昇が出てくる。

 

浅吉親分は、河内出身の力士を応援したけれど、皆、長続きしない。

それは、河内の人間は口が奢っていて、ちゃんこ鍋に耐えられないから。

 

鯉昇も、東京へ修行にやらされた時、食べ物の不味さに大阪に戻ってきてしまった。

それで親方の不評を買い、面白くなくて、飲む・打つ・買うの道楽に耽り、力士をやめた。

そして、河童と相撲を取って、臭くなった。

 

昔、剣晃という関取がいた。

相撲に興味はなかったけれど、剣晃は、なんとなく好きだった。

でも病気で、若くして亡くなってしまった。

確か、大阪出身ではなかったかと調べたら、守口出身だった。

そして、守口は、北河内に分類される地域なんだね。

 

 

天台院には、大きなタイサンボクがある。

今もあるのかな。

 

 

 

遠藤ミチロウ

2022年8月4日(木)

早朝の夢の中

遠藤ミチロウ

 

お店で、イベントのお手伝い。

 

客席を整えていると、後ろで、ミチロウさんのリハが始まった。

『1999』。

 

歌う声が、とても生々しかった。

 

なんでか硬直してしまって、振り返ることができなかった。

 

何度か、歌詞が出てこなくて、違う言葉に置き換わった。

「コロナで、久しぶりのライブだからなぁ」と思った。

 

CDもDVDもYouTubeもあるけれど、夢が一番生々しい。

 

 

『小説河内風土記 巻之三』

『小説河内風土記 巻之三』

今東光

 

巻之三は、色欲回。

 

『おんば』

 

流行り病で両親を亡くした、20歳と17歳の姉妹の話し。

 

二人は、結婚することなく、妊娠→出産→乳母を幾度か繰り返す。

子供たちは、一人を残して養子に出す。

 

不幸な話しなのだけれど…。

 

物語の最後、二人は、73歳と70歳になっている。

今東光は、「この河内女の幸福については何人も疑うものがなかった」と書いている。

 

周りの人たちが、この老姉妹をどう思っていたかは分からないけれど、確かに、二人は自分の人生に満足していた。

 

それは、二人とも、本当に好きな人と、短い期間ではあったけれど添うことができたから。

そして、それを無上の幸せと理解し、無粋な欲をかかなかったから。

 

 

 

『線香護摩二』

 

なんというか、そういう映画(ビデオ)になっていそう。

 

お話しは、次のように締められる。

日蓮上人も知ろし召せ。この尼僧こそ南無妙法蓮華経の当体なのである

 

お色気大賞で、大沢悠里さんが羽目を外し過ぎた時の、内海桂子師匠のお説教を思い出した。

 

「ふざけんじゃないよ! 黙って聞いてりゃいい気になって。悠里、いい加減にしろよ! 何バカな事言ってるんだよ! 恥を知れ恥を! 水でもかぶって頭冷やしておいで!」ウィキペディアより)

 

 

『甲蟹(かぶとがに)』

 

これは、ちょっと怪談がかっている。

 

魔性の女おとよは、人の会話の中で触れられるだけで、登場はしない。

得体が知れない。

 

久次が、おとよに精気を吸い取られて死んだ部屋を、久次の幼馴染の村雨が借りる。

そして、浮気相手の女性をそこに住まわせて、通う。

 

久次とおとよの年齢差は、20歳だった。

村雨と浮気相手の女性の年齢差も、20歳。

 

村雨は、自分は、この女にはまり込んでしまったと言う。

かつては、久次のおとよへの執着振りに呆れてしまっていたのに。

さらには、おとよという女に命を吸い取られた久次は幸せだったと考える。

 

もう一人の幼馴染直吉は、部屋を訪れて、牢獄のようだと思う。

そして、村雨の行く末に不安を覚える。

 

妖怪「肉吸い」は、精気ではなく、肉を吸った。

どっちを吸われても、骨と皮ばかりになり果てる。

 

 

河内には、布団太鼓という神輿を担ぐ祭りがある。

『河内風土記』を読んでいると、喧嘩がつきもののの、毎年血が流れる物騒な祭り。

 

でも、『野井戸一』の描写は、また違う感じ。

 

それは、睡気を催すばかりの単調な節奏だ。笛も三味線も入らない。太鼓の音の合間に懸け声が入るだけで、まったく曲もない芸当だが ―― 締め込み一本の真裸にぎらぎらと汗を垂らしながら千鳥足で歩いていると、次第に陶酔していくものらしい

 

Youtubeで見てみた。

 

本当だ。

この太鼓なら、私でも叩けそう。

 

でも、熱い掛け声と、この寝ぼけ太鼓の組み合わせはなんか気持ちいいぞ。

 

そして、お神輿がとてもとても重そう。

確かに、お神輿が千鳥足に進んで見える時もある。

三社祭は、女性の担ぎ手もいるけれど、これは無理そう。

 

それにしても、なんで、お神輿に布団を積んだんだろうか。

河内は、昔は綿栽培が盛んだったそう。

それで、綿を詰めた布団を神様に見立てたのかな。

 

 

 

『印(サイン)』

『印(サイン)』

アーナンデュル・インドリダソン

訳 柳沢由美子 東京創元社

 

終盤、分からなくなってしまった。

 

マリアは、本当は、母親を見なかったのか?

マリアの、「あれは事故だった」という言葉で、一気に分からなくなった。

バルドヴィンの、「あれは……、あれは……、マリアだったのか」の「あれ」は、何?

 

「気をつけろ……」という口寄せは、演技ではなかった…。

木戸の、男の幽霊(?)は、演技…?

 

 

エーレンデュルと元妻の再会のシーンは、地獄だった。

エーレンデュルが指定した場所は、うらびれた食堂。

なんでそこを選んだかというと、塩漬け肉がおいしいから。

互いに二度と会いたくない相手同士で、仲直りをしたくもない相手同士で、塩漬け肉を食べるつもりだったのか。

 

でも、元妻にとって、憎しみや怒りや悲しさをぶちまけたことは良かった。

そして、エーレンデュルが、それを受け止めたことも良かった。

 

そして、次の作品で、エーレンデュルと女友達が、別れているような気がする。

女友達が、休みに、一緒に海外旅行しようって誘っているのを分からないのかな。

分かって、自分にとってのエッフェル塔はハルドスカフイ(アイスランド東部のフィヨルド)だって答えたのかな。

 

 

今回は、エーレンデュルの同僚がほとんど登場しなかった。

でも次作はエリンボルグが主人公で、その次はシグルデュル=オーリが主人公。

楽しみ。

エーレンデュルの息子のシンドリが、飄々として好きなので、もっと出て欲しい。

 

 

『小説河内風土記 巻之二』

『小説河内風土記 巻之二』

今東光

東邦出版社 昭和52年

 

巻之二は、全話、夫婦、家庭のお話し。

 

『覗きからくり』。

 

作次は、自分が働く飯場のお金を横領して、人妻に貢ぎ、駆け落ちした。

そして、夫婦で覗きからくり屋になった。

もう、覗きからくりを楽しむ人間など、ほとんどいない時代に。

 

客を求めて、駆け落ちした時に住んでいた町にも、台を引いてくる。

作次が働いていた飯場は、浅吉親分のお兄さんがやっていた。

そこの帳場の仕事を紹介したのは、浅吉親分。

だから、浅吉親分に見せる顔はないはずなのに、草鞋銭をもらうために、挨拶に行く。

 

浅吉親分は作次を許したけれど、恥ずかしくないのだろうかとも、思う。

甲斐性の無い、落ちぶれた人間。

 

でも、今東光は別の面から見る。

「人間はな。自分が幸福やと感じてたら、見栄も外聞もいらんもんや」

 

「わしは彼奴等は幸せな奴やと思うたな。好きなことして暮らしてるやないか。何所の浮世に、おのれの好きなことして満足してる者あるねん。たいがいが皆ぶつぶつぬかして不平不満だらけで、喰うためやの、妻子のためやのと言いもって生きてる奴ばっかやないか。それに比べたら青空の下で、夫婦かけむかいで、のんびりと、朗らかに、

 あなたは上からさがる藤

 わたしゃ下から百合の花

なんて洒落のめして生きてる奴は幸に違いないで」

 

 

『山伏物語』。

 

酒と博奕で身を持ち崩して、泥棒をするようになった青年が出てくる。

彼に、今東光は言う。

「僕はね。君さえその気なら或る親分を知ってるから、そこへ紹介してあげようか。やくざになるなら本物のやくざになるがよろしい。其所でみっちり焼き灼き(やき)を入れて貰ってやろう。どうだい」

 

『覗きからくり』の作次に、浅吉親分は言った。

「わいは、われみたいな奴を、よう極道者にせんよって、必ずわいの家へ出入りせんでくれ」

 

渡世人を勧められる人間と、勧められない人間。

 

『山伏物語』の、青年の最後のシーンはかっこよかった。

けりをつけて、家でする。

そのけりのつけ方が、ストレートでさっぱりしていた。

 

今東光が、青年にやくざの親分を紹介しようと言った時のやりとりは、ちょっと緊張感があった。

育った環境に引きずられて不良になったけれど、元来、かしこい青年なのだ。

 

青年は、家出した後、どんな人生を送ったのだろうか。

 

家出して何処へ行くのかと尋ねる友人に、青年は言う。

「此所ばかりが日が照るかい」

 

これって、「人間到る所青山有り」と通じている。

 

 

岐阜の大垣から河内にお嫁に行った女性の話し。

子供の頃、言うことを聞かないと、「そんな悪い餓鬼は河内へやって仕舞うで」と言われた。

何故なら、「河内では人間を逆さ吊りにして生血を絞って布を染める」と言い伝えられていたから。

 

凄い。